時間

2009年12月15日 (火)

氾濫 洪水 

こんにちは、西山です。

ブログというものが世に出てきてから何年経つのか
わかりませんが、
近頃では随分と広まってきたように思います。

・・と、そんなことを書いているこの場もブログだということが
何よりブログの浸透具合をあらわしているかもしれません。

さて、お気に入りのブログを読む際に便利なのが、
RSSリーダーというしろもの。
私も個人的に某RSSリーダーを使用しており、
その恩恵に与っているのですが、
そのリーダーで最近発見したのが、

 全て読んだことにする

という機能です。

どういう機能か?

簡単です。

この操作を行うと、それまでに溜まっていた未読記事が
すべて既読扱いになるという、
まさに「全て読んだことにする」機能なのです。

わたくし、まだその機能を使ったことはありませんが、
そのありがたみはわかるような気がします。

調子にのって、様々なブログを登録すると、
簡単に言えば、読むのがおっつかなくなるのです。

未読記事がたまっていくと、なんだか少し憂鬱になったり・・。

そんな気持ちをふっとばしてくれるのがこの機能というわけです。

現代はITの発達で大量の情報が飛び交っていますから
そんな機能も必要になったんですね・・。

・・・・・・・・

というか、世に数多あるブログのなかから、
自らいくばくかを選んでRSSリーダーに登録しておいて
未読記事がたまって憂鬱だから全て読んだことにする
というのは、
なんだかおかしな気もしますが。

西山哲雄

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月24日 (火)

モノの縁(エッジ)観察日記 ~その1~

こんにちは、電車の車内で爆睡し、
大胆にヨダレを垂らしていた金石です。

先日、気持ちの良い陽気に誘われて、
家族で善光寺へお参りに行く機会がありました。

Img_3991

最近、「モノの縁(エッジ)」に興味津々の私は、
ついつい信仰心を忘れ、
あれこれと脇道に逸れては素材を観察しておりました。
この日も石畳に夢中になり、
ずっと下を向いて参道を歩くという始末...

Img_4010

善光寺参道の石畳です。
ノミで切り出されたであろうこの敷石たちは、
多くの参拝者がこの上を歩いたおかげで、
今や磨きをかけたような、
つるっとした表情になっています。

で、しばらく歩くとこんな石が目に飛び込んできました。

Img_4009

参道と自動車用の道路が交差する箇所の舗装です。

私の撮影した写真でもわかるくらい、
素材の深みの違いは明らかです。
もちろん、積み上げてきた年月の差は歴然ですし、
両者に優劣をつけることにはあまり意味がないようにも思います。

でも、、、

「何かが違う」という心の中の直感は拭いきれません。

そこで私、よく両者を観察してみました。

で、結論。
石の表面の素材感の違いはさておき、
両者の目地の違いは考察の余地あり。

さすが「モノの縁(エッジ)」に興味津々な男。
目の付け所がマニアックです。

こうして改めて比較してみると、
目地の処理って案外全体の雰囲気に及ぼす影響が
大きいようにも思えます。

言うまでもないと思いますが、
前者の方が遥かに深みが感じられます。

建設業界に身を置き、
あたりまえのように思っていた「目地」の処理ですが、
善光寺の石畳はそんな「あたりまえ」を
見事にぶっ飛ばしてくれたのでありました。

金石健太

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月12日 (木)

力なり

こんにちは、西山です。

久しぶりに、リアルタイムでブログ更新しています。
このところ、西山分の更新が滞ってしまい
申し訳ありませんでした。

本日、

  10/9、15、20、23、28
  11/4、9

以上の更新を完了しました。
あいかわらずたわいもない話が満載ですが、
よろしければどうぞ。

さてさて、
さすがにこれだけ更新をためてしまったのは初めて
だったので、正直あせりました。

最初のうちは、いくつたまっているかを認識していたのですが、
途中からは、

 とにかくたくさんたまっているけど・・

とアバウトな認識になり、かなり現実逃避をしておりました。

やはり、少しずつやるのが一番ですね。

・・・・というか、日付を偽装して、過去の更新をでっち上げる
というのは、なんだかおかしいですね。

今後はなるべくこのようなことがないようにしたいとおもいます。

ということで、
更新が滞っているあいだに11月に入ったというのに
ここで勝手に

 継続

を今年の個人テーマにしたいと思います。

イメージとしては、バッターが毎日素振りをするように、
私もなんらかの「素振り」を毎日していきたいなと
思う次第であります。

正直、具体的なところはまだ見えていないのですが、
毎日かかさず、
たとえ明日、その必要がなくなるとわかっていても

 素振り

していきたいと思います。

【本日の京都】
001_5
前も取り上げました、京都の犬矢来です。
個別更新可能な、素晴らしいアイテムです。
しかし、右の部分をよく見ると・・
002_6
おわかりでしょうか。
右半分は、竹ではなく、木製です。
竹矢来でも木矢来でもどちらでもいいと思うかもしれませんが、
個人的には、

  ・竹は木にくらべ成長がはやく、わりとどこにでもあり
   入手しやすい。
  
  ・竹を加工するには、鉈とそれを扱う腕があれば十分だが、
   丸太の状態の木からこのような細い材をこしらえるには、
   現実的には大掛かりな機械に頼らざるを得ない

  ・竹矢来は節がリズムを刻み、豊かな表情を生み出している。

  ・竹は容易にしなる。

  
などの理由から、竹矢来を強く推したいと思います。
(現実に、ほとんどが竹矢来ですが・・。)

竹矢来推進委員会
西山哲雄

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

モノの寿命

こんにちは、先程から1匹の蚊と格闘中の金石です。
このブログを書いている間は休戦中です。

昨日、とある会議に出席し、
大変興味深いお話を耳にしました。

というのも、

 樹木の寿命は原種に近いものほど長い

らしいです、一般論としては。

なるほどそうかもな・・・。
今までそういう観点を持ち合わせていなかった私は、
感心しながら妙に納得しておりました。

例えば...
お隣の高山村には樹齢200年を遥かに超えるような
「枝垂桜」の大木が点在しております。
一方で、お花見で有名な「ソメイヨシノ」は
エドヒガンとオオシマザクラの交配種とされておりますが、
その寿命は60~100年くらいと言われているようです。

植えられる環境が違うので、
一概に数字だけを比較できませんが、
「原種の方が寿命が長い」
という説は、ストンと私の中に入ってきました。

 あれこれ手を入れすぎるとどこかで無理が生じる

これってどんなの世界でも
結構当てはまっていると思います。

金石健太

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月10日 (木)

長持ちする家~その3~

こんにちは、西山です。

誠に恐縮ではありますが、
今回も前回の続きとなります。

・・・・・・

前回の最後にこんなことを書きました。

 「この家は200年もちます」
 と保証している会社自体が、
 200年後も存在する保証はどこにもない。

と。
各企業がそれぞれの工法や素材を追い求める中で、
この事実は、意外と重いものであるように思います。

要するに、
メンテナンスさえすればまだまだ使える家が、
それを担う企業がなかったり、
または必要な材料が手に入らなかったりすることで、
壊してしまわざるを得ない状況に
追い込まれてしまうことが起きるのではないか?
ということです。

では、そうならないためにどうすればいいのか?
それは、歴史が教えてくれる気がします。

昔(といってもひと昔程度の昔ですが・・)は、
家は、その土地にある材料を使って、
その土地の気候風土に合わせてつくられていました。

それはみなさんご存知かと思いますが、
なにせ昔は、身近にある材料といっても、かなり限られていました。

土、木、草、・・・そんな自然素材を使うしかなかったわけです。

そして、つくりかたにしても、
限られた素材を使ってその土地の気候に合わせなくては
いけませんでしたから、突飛なことはできません。
その結果、
ある範囲の土地では、どれも同じような工法による、
同じような格好の家が並ぶことになるわけです。

昔はただ「結果として」そうなったわけですが、
今と比較して考えれば、
昔は材料と技術の両方が、地域の職人によって共有されていた。
ということが言えるのではないかと思います。

だからたとえば、その家をつくった職人がいなくなってしまっても、
その土地の職人ならばだれでも、
その家のメンテナンスを引き継ぐことができたはずです。

・・要するに、

 地域として
 「この家は200年もちます」
 ということを担保する

ということが、成り立っていたのではないかと思うのです。
で、もしそうであるならば、これは、

 個人や企業として
 「この家は200年もちます」
 と担保する

ことに比べて、圧倒的に安定感があるのではないかなと
私は思います。

みなさんは、どう思いますか?

西山哲雄

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 1日 (火)

規格化の効用

こんにちは、髪を切ったり頭にタオルと巻くと
娘に大泣きされる金石です。
些細なことで「父親」と認定されなくなる
なんとも肩身の狭い男です。

さて、ここのところ色々な用事が重なって、
古い建具を数多く目にします。

当たり前のことですが、
昔の建具、さらに大きく言えば建物全体は、
ある程度大きさの規格が全国共通で定められており、
結果として、建具なんかは再利用の利く場合があります...

今、私は何気なく「結果として」と表現しました。
実際、古民家再生の現場などでは、
こうした建具を再利用できます。
現代の私たちの感覚では、
「たまたま我が家の開口部と大きさが合うから」という感覚で、
「結果として、再利用...」という表現が
結構しっくりくるかと思います。

でも、本当に「結果として」なのか?

そんなことが気になり始めました。

そもそも、規格化ってどういうこと?
考え始めたら、そんなところから疑問になります。

確かに、何らかの規格が存在すれば...

例1)木を切り倒して製材するとします。
   本来であれば、注文された大きさに
   木割りを施してそれぞれの材を納めるところを、
   規格が存在すれば、
   この大きさに切っておけば柱材、
   残りのこの部分では間柱材になるな、
   と、あらかじめある程度の計算が立ち、
   材のストックが利くようになります。

  →要するに流通に乗せやすくなります。

例2)今度は大工さんの気持ちになってみます。
   家をつくるのに毎回つくりも納め方も違えば、
   仕事の度に新しいことへのチャレンジで負担大です。
   でも、規格が存在すれば、
   基本的なつくりや納め方は同じになり、
   技術の応用がしやすくなります。

  →要するに技術が体系化します。

さっとこんなことが想像できます。
この考え方は現代社会でもよくみられるかと思います。

で、今日私が言いたいことは、
規格化の最大の効用のひとつに、

 材の再利用が可能となること

が挙げられるのではないか?ということです。
先程例に挙げた建具のように、
規格化すればその再利用が容易なことは
簡単に想像がつきます。

昔の人は「材の寿命>建替えのサイクル」
ということをよく知っていて、
再利用しやすくするように規格化したのでは?
そう思えてくるのです。

そして、これが肝心なこと。

 この考え方って現代に通ずるものでしょうか?

どっぷり使い捨て文化の中で生きている
金石健太

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月17日 (月)

廃れる

こんにちは、西山です。

先日テレビで、
『鉄道旅行帳』なるものがヒットしているという
特集をみました。

調べてみたら、正式名は『日本鉄道旅行地図帳』でしたが、
とにかく、そのような本が出ておりまして、
なにやら売れているらしいと、知りました。

この地図帳が売れている理由はいろいろとあるのでしょうが、
個人的に気になったのは、

 全ての廃線を網羅している

というところでした。

わたくし、鉄ちゃんではありませんので、
車両の写真をとったり、廃線跡をおいかけたりという趣味は
持ち合わせていないのですが、
廃線が地図にのってたらうれしいだろうな~ということは
我がことのように、よくわかりました。

というのも先日、
このような経験をしたからです。
 
 不肖西山、
 ひょんなことから、今は廃止されてしまった某スキー場に
 行く用事ができまして、
 小布施から割と近い場所ではあったのですが、
 土地勘のない私は、いつもそうするように
 グーグルの地図でその場所を調べようとしました。

 ところが・・・、見つからないのですね。
 そのスキー場の名前を入れても

 「○○○という場所は見つかりませんでした。」

 という悲しいお知らせが出るだけで、
 それ以上の情報は得られず、
 途方にくれてしまいました。

考えてみればわかることですが、
ウェブ上では、情報が頻繁に更新されていくので、
地図ひとつとってもそれは、
出来うる限りの最新のものであるわけで、
数年前までたしかにそこに存在していたものであっても
今はないものであれば、
当然のように「最新の」地図からその情報は削除され、
それがどこにあったかを確認することさえ難しいのだと
そのときに初めて気づいたのです。

その後どうにか目的の場所を探し当てたわけですが、
そんなこともあって、
「過去の情報」をのせた「地図帳」のすごさと、
それをよろこぶであろうユーザーの様子が
容易に思い浮かべることができたということでした。

5年前の地図とか、10年前の地図とか、
ウェブで簡単に調べられるようになったら面白いですね、きっと。

西山哲雄

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月 9日 (木)

古色仕上げ塗装中の独り言 ~その1~

こんにちは、小屋裏でお昼を過ぎた頃から迫り来る
『闇』と格闘している金石です。
3時を過ぎると本格的に手元が見えなくなり、
なかなか作業が進みません。

電気を付ければ?

皆さんそう思われるかもしれませんが、
実はこの現場、電気を引いていないんです。
なにかと不便なことも増えてきたので、
近々仮設の電気を引くことになりそうです。

ちなみに古い発電機を現場に持ち込んで
投光器で照らすことも試みましたが、
古いだけあって振動音が大変うるさく、
ご近所に迷惑をかけてしまうので泣く泣く断念しました。

さて、本日の塗装作業中の私の頭の中のテーマは
ズバリ、「時間と塗装」です。

今、私がしている作業は、

 新しくした部材を古色仕上げで塗装すること

です。
では、古色仕上げで塗装することとは...?
それは端的に言うと、

 部材の表面に煤や油を付着させていること

ですよね?
これって言い換えるならば、

 囲炉裏から立ち上った煙が、何十年という歳月をかけて
 部材の表面に付着させた(=塗った)煤や油を、
 一瞬のうちに塗料として塗ってしまおう

ということに他なりません。
古材の表面と古色仕上げをした部材の表面...
多少の違いこそあれ、
成分的にはほぼ同じものと言えると思います。

あぁ、そうか...

今こうして手を動かしている「古色仕上げ」って、
長い時間かけて出来上がってきたものを、
早足で仕上てしまおうっていう技術なのかもなぁ...

そんなことを暗闇の中で考えておりました。
だから何ってわけでもないんですけど...
完全に独り言です、はい...

金石健太

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 1日 (月)

じゅうぶんのさん

こんにちは、西山です。

・先日のことですが、某国営放送で
 西本願寺の御影堂の修復をとりあげた番組をみました。

 この番組は、10年に及んだ大修理を追ったもので、
 瓦屋根の修復の様子や、耐震性の検証の様子など
 非常に興味深い内容だったのですが、
 そのなかでも一番驚きだったのが、
 400年前に御影堂がつくられたときには、
 なんと3年で完成させたという事実でした。

 400年前ですから、
 クレーンなどの重機があるはずもなく、
 道具にしても、今の「便利」な道具からすれば、
 「不便利」なものばかりだったことでしょう。

 数々の「便利」をもってして、修復に10年かかったものを
 「便利」のない大昔に、3年で一からつくってしまったという
 ことに、本当に驚きました。

 少し前に「ゆっくりつくるとちゅう」と題したブログで

  今の建築は、早くつくればつくるほど安く済むもんだから、
  とにかくすこしでも「早く作る」ということを目指している

 と書きました。
 このときには、

  現代:はやくつくる
  むかし:ゆっくりつくる

 という図式が頭のなかで勝手に出来上がっていたのですが、
 今回わかったのは、この構図は必ずしも当てはまらない
 ということです。

 なにしろ場合によっては、今の3倍のスピードで
 建物をつくっていたのですから。

 古い建物に関わっていると、
 昔は壁土を3年寝かせて使ったとか、
 ぼたもち石を加工するのに、1日に1個仕上げれば
 腕のいい石工だったとか、

 とにかく
 昔の建物はゆっくりつくられていたということを
 思い知らされることがよくあって

 そのせいか、

  昔の建物はゆっくりつくられた

 ということが、自分の中でなかば固定観念化されて
 しまっていたのだと思います。

 ふだんなるべく「決め付ける」ことをしないように注意している
 つもりですが、なかなか難しいですね・・。

 兎にも角にも、我々が昔よりも進歩しているとする考えは、
 ある限られた範囲においてのみ有効だと考えるほうが
 いいのかもしれません。

・辞書を買いました。
 おそらく10年以上ぶりです。
 大学生の時に電子辞書は買ったのですが、
 非電子の辞書っていうと本当に、
 高校生くらいまでさかのぼるのかもしれません。

 
 先日のブログで取りあげた大野晋さんの
 『角川必携国語辞典』を購入したのですが、
 ひさしぶりに辞書をめくってみると
 なかなか面白いものですね。

 非電子の辞書の利点は、
 自分の調べたかった事柄の周辺にかいてあることまで
 目に入ってくることですね。

 こればっかりは電子はかなわないんじゃないかなと思います。

 しばらく偶然の出会いを期待して、辞書を繰る日々が続きそうです。

 〈本日の雑草〉
Photo

雑草という草はないのですが、
彼らの名前を覚えることは
なかなか容易ではありません。

写真の彼は、「草の王」という名前だと
ある人に教わりました。
なんともスケールの大きい名前です。

西山哲雄

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月17日 (金)

土地から生えるもの

こんにちは、西山です。

川添先生の話を聞いてから数日後、
偶然読んでいた本の、こんな一節と出会いました。

 「文化」とは売り買いできないもの(輸入、輸出ができない)。
 「文明」というのは、売り買いできる(輸入、輸出ができる)

 
これは『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』
(新潮文庫、46頁)からの引用ですが、この一節は
大野晋さんの『角川必携国語辞典』から引用されていた
部分だったので、引用の引用ということになります。
(本当は原本に当たるべきところではありますが、
 今回は間に合いませんでした。申し訳ありません。)

さすが辞書。といってしまえばそれまでですが、
この定義はすばらしく明快です。

また、川添先生の
 
 文化は場所におこるもので、
 そこに人が介在することは許されるが、
 文明は場所によらないもので、
 人の介在を許さないものだ。

という説明とも重なる部分が多いように思います。

やはり、文化とは土地から生まれるもので、
それを土地と切り離して考えることはできないという
ことだと思います。

そして、土地と切り離せないからこそ、
輸入や輸出ができないわけですね。

住宅を例に「文化」と「文明」のことを考えてみると、
地方地方で、その土地の気候風土に合わせて、
その土地の材料でつくられていた「民家」は、
まちがいなく、「文化」だと思います。
(これらは今、「古民家」と呼ばれることが多いです。)

一方、全国どこでも、さらには世界中どこででも
同じような家を建てていくことは、「文明」と呼ぶほうが
適当に思えます。

 ・・・・・・
 
さて、では「古民家」を別の土地に解体移築したとしたら、
それは「文化」的行為なのか「文明」的行為なのか・・。

例えば、海外に移築ということになれば、
それを「文化」と呼ぶことは難しいでしょう。
 
反対に、すぐ隣の敷地に移すだけなら、
「文化」的行為とみなしてもさほど問題は無いと思います。

では、両者の境目はいったいどこなのか?

そしてそれは、物理的距離の問題なのか、
それとも別の尺度があるのか・・。

 
前にも同じようなことを書きましたが、
そのあたりのことを考え続けていくことが、
今後、自分にとっては大切なことのような気がします。

西山哲雄

| | コメント (0) | トラックバック (0)